1989年7月1日、夏のボーナス支給を待ち、シベリア鉄道横断の旅に出た。
予定は、北京でシベリア鉄道のチケットを買い、ソ連を横断してモスクワに何日か宿泊、その後、東ドイツまで鉄道を乗り継ぎ、東欧諸国を回り、ギリシャに到着、のルート。
シベリア鉄道に乗ってソ連を一人で旅するのは心配なので、ボーイフレンドのデビッドを誘った。
成田から北京に飛び、アメリカ人の知り合いから聞いたシベリア鉄道のチケットを安く買えるというゲストハウスにチェックイン。
そこで商売をしているポーランド人から、北京発モスクワ経由東ドイツまでのチケットを120ドルで購入した。日本で買うと7万円くらいしたはずなので格安だ。
2等の4人部屋コンパートメントは、両サイドに2段ベッドがあり、私たちの他にはポーランド人の若者2人。
夏のシベリアの大地は、草花がさきほこり、モスクワまでの7日間は毎日が晴天だった。
列車はバイカル湖に沿って長時間走り、湖の大きさに驚いた。
ノボシビルスクなど、中学の地理の時間に世界地図でしか見たことがない街の名前を通った時は、震えた。あの頃は一生訪れることはないだろうと思ったから。
冬は寒いだろうに、貧相な木造の家々が通り過ぎていった。
最初はシベリアを横断しているワクワク感で、何も見逃すまいと窓の外から景色を眺めていたが、3日目あたりからさすがに飽きてきた。
列車には欧米などからのバックパッカーが乗っていた。デビッドはイギリス人なので、カードのブリッジのやり方を教えてもらい、ヨーロッパからのバックパッカーとブリッジをプレイして一日過ごすようになった。
列車はたまに停車するので、外に出ると、乗客に売るのを待っていた地元のおばあさんから、ふかしたじゃがいもを買ったりした。
列車を止めて乗り込んで来るのは、厳しい顔をした検閲の警官。映画でしか見たことがなかったが、緊張する。「あー、今ソ連にいるんだ」と実感。
ソ連人は白人だが、目の色が違うのだ。たとえば、イギリス人のデビッドの目は明るい茶色。だが、ソ連人の目の色は暗い、と思った。やはり生活が厳しいのだろうか?
あー、列車に乗ってるのもう飽きた、耐えられん、狂いそう、と思った7日目にモスクワに到着した。モスクワで泊まるのは、ソ連人の家。それも無料で泊まれる。
北京でポーランド人からチケットを買った時に、デビッドがイギリス人なのを知り、そこを紹介されたのだ。
なぜ無料で泊まれるかというと、普通のソ連人は外国人からの招待状がないとソ連を出られないからだ。無料で泊めてもらうお返しに、デビッドが招待状を出すことになった。
ホテルなどに泊まるよりも、ソ連人の家に泊まるほうが普段の生活を知ることができるので、ずっといい。日本人の私よりも、イギリス人のデビッドの招待状のほうが重宝するのだろう。一緒に来てもらってよかった。
私たちが泊まったのは、25歳くらいのユダヤ系ソ連人の男性のアパート。
ルームメイトがいて、年齢不詳のおばあさん。このおばあさん、昼間からウオッカを浴びるように飲んでいた。ソ連では、低所得層ほどアルコールをがぶ飲みする傾向があり、問題になっているようだ。
私たちが滞在中にこのおばあさんは強制的にウオッカをすすめてくるので、喉に一気に流し込む飲み方に慣れていった。私はお酒が好きで強いからよかったものの、そうでなかったら、大変なことになっていたかもしれない。
ユダヤ人男性の所には、難関大学を出た研究所勤めの女友達が時々遊びに来ていた。
話を聞くと、研究員とはいえ、年収は日本円で30,000円ほどと、めちゃくちゃ低い。
二人ともソ連には満足していないようだが、なにせ外国へ行くにも庶民は招待状がないと出られない。
自由に旅行できる日本人に生まれてきて、本当に幸せだな、と思った。
ユダヤ人男性は、デビッドからの招待状でイギリスに行き、何かを買い付けしてきたいようだ。
それはそうだろう。デパートに行っても、棚のほとんどは空。店やレストランで何か欲しい物があれば、ドル札を出すと途端に出てくる、というのには納得がいかないが。。
一度、街中の屋台でパンの上に白いのが乗ったサンドイッチみたいなのを買ったことがある。 それを口に入れた途端、吐き出してしまった。
白い物の正体は、白い脂身。ソ連人は大きな脂身が乗ったパンを食べるんだ。。。
他に挟む物が手に入らないのだろうか? だから、おばさんなどは、まるで象のような足をしているのか? でも、若い女性は皆きれいなんだけどな。。
ユダヤ人のソ連での立場はあまりよくないらしく、彼は本当は外国に住みたいらしい。
一般のソ連人と触れ合うのは貴重な経験で、ホテルに泊まっていたらできない経験だった。
滞在して3日目、ユダヤ人男性の友達の結婚式があるというので、私とデビッドも一緒に行こうと誘われた。
結婚式では、皆、酒を浴びるように飲み、手をつないでダンスを踊った。
一緒に踊った60歳くらいの男性は、元ミグパイロットだった、と言った。
ソ連人にしては小柄で、私と同じくらいの身長だ。頭が少しハゲている。
「時々日本海上空を飛んだことがあるよ。日本の領海に入っちゃったことがあったなあ。日本の自衛隊機とあわや、てこともあったよ」と、軽く言った
とてもミグパイロットだったとは思えない。ミグパイロットなら、エリートなんだろう。そんなふうには見えないが。でも、現役の頃はキリッとした厳しい顔してたんだろうな。
それよりも、領空侵犯するなよ、と思った。引退したからか、今は穏やかなおじさんだった。
皆で一緒に写真を撮ったのだが、その後、ギリシャで貴重品を置き忘れて全て盗まれてしまい、写真もその中にあった。
今でもソ連人と、特に元ミグパイロットとの貴重な写真がないのが、とても残念だ。
モスクワに到着し、地下鉄に乗って降りるときに、一人の若者が私のバックパックを運んでくれたことがあった。最初は、「盗まれるのでは」と心配したが、ただ親切な青年だった。
ソ連という国は不気味で怖いが、一般人は普通の良い人の印象を持った旅だった。
今と違って治安は良かった。親切にしてもらった素朴な人たちのことしか思い浮かばない。